• しんちゃん

唐 津 港

唐  津  港  唐津港の生命は郡の南方の諸炭田にありて、輸出入共に石炭を除きて他に本港の価値を左右し得べき物産はない。石炭即ち本港の生命である。地方有志の奔走の結果明治二十二年七月特別輸出港となる。これ今の東港である。されど同港は水探浅くして大船巨舶を繋ぐに不便である。偶々海軍出張所長(海軍用炭所管場長)星山大機関士が唐房湾が天然の良港たることを唱へしより、或は東港浚渫(しゆんせつ)を主張するものと、唐房湾利用を唱ふるものゝニ派を生じたが、大勢は唐房湾説に傾き、二十九年二月二十八日大島小太郎、菊池音蔵、岸田音吉郎(※)、市川才次等十名が関係町村発起人総代となり、唐房湾開港のことを唐津村長中島磯之助の名儀により、農商務大臣榎本武揚に出願した。時の佐賀県知事は田邉輝実にして書記官は山田春三であった。  偶々唐津の東方数里にして福岡県船越湾が熱烈なる開港運動を開始し、唐津港の運命予知すべからざるものあれば、山田書記官東上して極力政府當局に運動尽瘁甚だ力めた。かくて滞京長からんとするや、知事田邉輝実は山田の帰県を促せしに、彼は頑として應ぜず、此の事たるや唯.地方の小事ならんや国家貿易の消長に関すること大なり。地方事務の如きは宜しく下僚(かれう)に托して可なりと、寝食を忘れて奔走尽力した。 彼の愛国婦人会創設主唱者たる女傑奥村五百子が此の間地方人士を激励せしも常時の一挿話(そうわ)である。  政府は終に実地踏査を必要として、税関局長石川有幸をして船越湾唐房湾を視察せしめ、次で内務省土木局長古市公威官命により観察せしが、果して港湾の優良なると生産力の豊なるを認めて、具(つぶ)さに政府に報告するところありしが、三十二年七月十二日の勅令により開港場たることを認許せられた。これが今の唐津西港である。  大正二年南北アメリカを裁ち切りたるパナマ運河開通後、北米と支那間航路の最捷路(さいせうろ)の薪水供給地として至便の地位を占むるに至る。大正五年七月唐津港会社は認可せられしも、今日に至るも未だ工事に入るの機運熟せす。主産物たる石炭は多く内地各方面に移出せられ、又南支那、香港、比津賓、北米合衆国方面にも輸出せられてゐる。


(※)2020年2月21日(金)岸田音次郎→岸田音吉郎へ修正

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