• しんちゃん

唐津築港の由来記

最終更新: 2月20日

火力発電所の大煙突が東港前に突立って、工業地帯の風貌を示しはじめたが、一面石炭の斜陽化で大正時代一年一千万円を誇った貿易額も漸次減退して、第二種港湾の取止めも問題となって、地方当局をはじめ地元関係者もよりよき再興の計画を練っているが、老人として昔をしのんで築港当初の思い出を話そう。  先ず西港修築を叫び出したのは、岸田音吉郎(※)という人だったが、時早すぎて同意者なく其のまま立消え、その後唐津鉄道の開通とともに、石炭の船積も漸次松浦川口から西唐津港に移って来た。そこで明治二十九年大島小太郎氏の発意で坂本経懿、河村藤四郎、山崎常蔵他六名の発起で唐津築港株式会社を創立した。

株主百三十名余、資本金百二十万円、唐津村長中島幾之助名義で農商務大臣榎本武揚宛に着工を出願した。その計画によると、西港の水面を埋立てその一部を売却し、一部貸付けて、貸地料と船舶接岸料を収入するを目的とし、大島南端から妙見、佐志、唐房より更に相賀に至る地先水面二十三万余坪を埋築する筈だったが、県の許可が停滞し且つ日清戦後の不況で資金の集結思うにまかせず、遂に中止のやむなきに至った。その後、芳谷炭坑が港頭に石炭積込専用の小規模な埋立築港を計画したが、経費の都合でお流れとなった。  其後、日露戦争後、地方有志で唐津港改良調査会を組織し築港促進運動を始め唐津鉄道株式会社と提携して設計を古市公威工学博士に依頼し、一年半で細密な工事設計が完成したので、四十八年八月県を経て国営築港の要望書を農商務省宛に提出したが、県が好意をもたずその儘握りつぶしとなった。そしてその後、大正二年四月、原孝徳氏他一名から、又同月有浦村宮崎吉蔵氏から、更に同年八月改めて大島小太郎氏からも夫々別個に西港側の公有水面埋立の出願があったが、此等埋立築港に対して地元の唐津村側からは、今日までの先願者との衝突、妙見から流出する水路を閉じないことなど条件がついて好意を示されたが、佐志側としては村会の決議により同水面は佐志、唐房三百五十戸の専用漁場であり、突堤の構築によって波浪の侵害を受くる惧れがあるなどという反対意見陳情があり当局としても保留のまま日を過していた。  その後、菊池徳次郎、小関世男雄両氏の進言によって、大島氏は前記の他、平松定兵衛、阿部清、草場猪之吉、岸川善太郎、斉藤勇三、兼子あきら、岩城卯吉其他の諸氏を集め、大正六年四月、三百万円の資金を以って第二次の築港会社が創立された。ところが計画内容について鉄道側に難色があって、進捗せず、大正十年十一月に至って漸く施行認可を得たので、同年四月二十一日に一応起工式を挙げたものの、丁度第一次世界大戦後の財界混乱、物価騰貴の時に遭遇したため、第一回払込金七十五万円を擁しながら、一片の土石も動かさずに解散のやむなきに至った。  数次に亘って餌ばかり見せつけられ、しびれを切らした地元では、宇山磯五郎氏を中心に西唐津築港期成同盟会が組織され、築港会社の復興を画策したが物にならず、大正十三年の県会に猛運動し唐津築港県営施行の建議案が可決されたが財政の都合で実施の運びに至らなかったが、唐津町村合併を機会に促進、昭和六年冬の県会で実施決定した。  四ケ年計画で第一年工費五十四万二千五百円で、内十五万円が国庫補助、十五万円が地元負担、渡辺弥作氏が築港修築事務所長として着工した。岸壁延垂二百六十五米、海の浚渫五万坪水深、税関附近一千米を除き、大体四米半から七米三〇、この土砂を以って後方一万七千坪の埋立をすました。このため五千屯級の汽船一隻、八百屯級三隻が同時に横付されることとなった。そして十二年五月二十六日、埋立広場で、第二種重要港湾指定と、第一期修築工事竣工式が挙行された。その後の増修築と東港一帯の進展は新しい事だからわれわれが話す必要もあるまい。

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唐津築港の由来記


昭和五十一年四月      編集委員 田原 治男           尾花  明           堀田 哲男           稲富 政雄 明治・大正の唐津 昭和五十二年五月三十日印刷 昭和五十二年六月二十日発行 著 者  石 井 忠 夫 発行所  唐津市西城内一番     ℡②5141     唐津商工会議所 印刷所  唐津市千代田町     唐津印刷有限会社


(※)2020年2月21日(金)岸田音次郎→岸田音吉郎へ修正

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